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神戸家庭裁判所 平成3年(家)2号・平3年(家)3号・平3年(家)4号・平3年(家)5号・平3年(家)1448号・平3年(家)1503号

主文

被相続人の相続財産のうち、金3000万円を申立人中井道子に、金250万円宛をその余の各申立人に分与する。

理由

一  申立ての趣旨及び実情

1  被相続人は平成2年2月28日死亡し、その相続が開始した。

2  被相続人には法定の相続人が見当たらなかつたので、相続財産管理人が選任され、同人の請求により相続人捜索の公告がなされたが、期間内にその権利を主張するものがいなかった。

3  申立人らは、被相続人の生前、同人と特別の縁故関係があったから、相続財産の分与を求める。

二  当裁判所の判断

本件記録添付の平成2年(家)第540号相続財産管理人選任申立事件及び同年(家)第2252号相続人捜索の公告申立事件各記録、当裁判所調査官○○○○作成の平成3年10月3日付け調査報告書、並びに申立人らに対する各審問の結果によれば、申立ての趣旨及び実情1、2の事実のほか、次の事実が認められる。

1  申立人中井道子について

イ  被相続人は、明治28年10月21日、愛媛県○○郡○○○村(現○○郡○○町)で生まれ、尋常小学校卒業後、大阪市内のワイシャツ製造問屋の住込職人となったが、大正12年頃金井きよみと結婚し(ただし、結婚の届出は昭和7年10月17日)、間もなく上記問屋を退職し、きよみとともに神戸市○○区○○○で衣類雑貨小売商「○○○○○」を開業した。その後、神戸市○○区の商店街に移転し、昭和20年には空襲により店舗を焼失したが、終戦後間もなく同区○○町1丁目に店舗兼自宅を購入し、前記小売商を再開した。

ロ  申立人金井道子(以下、「道子」と略称)は、父が被相続人の店舗に学生服等を卸していた関係で、中学2年生の頃から被相続人方でアルバイトをしていたが、昭和31年3月中学卒業と同時に、同店に住込店員として雇用された。そして、その後、昭和39年4月に結婚、出産のため、一時退職したが、昭和42年頃からは被相続人の商売が忙しい折には、被相続人に請われて、手伝にいっていたが、昭和48年には復職し、以後昭和62年被相続人が上記商売を廃業するまで、通いの店員として、同店に勤務した。

ハ  同店では、一時は4人の住込店員が働いていた時期もあったが、昭和48年頃には、全員退職し、店員は申立人道子のみとなった。

ニ  被相続人は吃音で、社交下手であり、また人に対する好悪の念が強かったこともあって、開店当初より、自分は奥の間で帳簿付け等経理関係の仕事に携わり、客相手の店番は専ら妻のきよみと申立人道子がしていたが、昭和53年4月妻きよみが病気入院したため、その後は申立人道子が一人で店番に当たることとなった。

ホ  きよみの入院中は、昼夜とも付添婦を雇用したため、家人がその看護に手をとられることは少なかったものの、被相続人が独り暮らしとなったため、申立人道子は、上記店番とともに、炊事、洗濯等被相続人の身の回りの世話に当たり、更に店番の合間に、きよみの着替えや日用品を病院に持参し、その際きよみに付き添って、その愚痴をこぼすのをきき、また、付添婦が食事に出掛けた折には、付添婦に代わって、食事の世話、その他身辺の世話に当たった。

きよみは昭和54年1月1日死亡し、被相続人は独り暮らしとなったが、その後も前記小売業を継続したため、申立人道子が専らその店番に当たったほか、独り暮らしの被相続人のために、店番の合間にその食事を作り、下着等も自宅に持ち帰って洗濯した。また、当時被相続人は既に82才の高齢であったため、盆と彼岸の亡妻きよみの墓参りには、申立人道子が同伴した。

上記のとおり、被相続人は神戸市○○区○○町で衣類雑貨小売商を営んでいたが、昭和62年1月、神戸市の都市再開発による区画整理のため、同市より一時立退きを命ぜられ(2年後に同地上に建築されるマンションの1室に入居予定)たため、これを機会に、前記衣類雑貨小売商を廃業し、上記マンション完成までの間、他に適当な住居も見当たらなかったので、申立人道子所有の神戸市○○区○○町所在の建物を、月6万円の家賃で借り受け、同建物に居住した(なお、同建物は、当時は未だ購入予定にすぎなかったものを、被相続人を入居させるために、購入時期を早め、被相続人了解のもとに、同人の定期預金を担保として、銀行より融資をうけ、これに手持資金を加えて購入したものである。銀行よりの融資は、後日申立人道子の夫の養母らからの借受金で返済した。)。なお、被相続人は、上記建物に入居するに当たり、建物の修理費50万円を支出した。

チ  被相続人は、上記のとおり昭和62年衣類雑貨小売商を廃業したが、申立人道子は、その後も被相続人に雇用され、毎日午前10時には被相続人方に出向き、午後5時過ぎ帰宅するまでの間、掃除、昼食、夕食の支度、その後片付け、被相続人の話相手、並びに被相続人を銭湯に連れて行く等して、被相続人の身の回りの世話に従事したほか、時折、夜中突然、被相続人より電話で呼び出され、その都度、自転車や自動車で被相続人のもとに駆け付けた。また、被相続人は、死亡3年前頃より、夏期には食欲がなくなり、衰弱するようになったため、被相続人を掛かりつけの病院に連れていき、点滴治療をうけさせた。

リ  被相続人は、平成2年1月21日夜、道路を歩行中転倒して骨折し、救急病院に運ばれたが、申立人道子は翌22日被相続人を従前からの掛かりつけの病院に転院させ、被相続人が死亡するまで、毎日午前10時から午後5時まで病院に詰め、日用品の買物、その他付添婦(被相続人は、昼夜付添婦を雇用していた)が食事、あるいは休憩している間の看病に当たった。また、入院中は、被相続人からその預金の管理を任され、被相続人の指示のもとに、預金から入院治療費、その他雑費の支払をした。

ヌ  被相続人は、同年2月27日容態が悪化したが、申立人道子は一晩中付き添った。

ル  被相続人は翌28日死亡したが、申立人道子は被相続人の遺体を被相続人が生前居住していた前記○○町の居宅に連れ帰り、通夜を営み、翌日自己が喪主となって葬儀を執り行った後、四十九日までの法要も執り行ったほか、同年5月申立人山口恵子姉妹から被相続人の位牌の引渡しを求められるまで、供養をした。また、今後も、被相続人の供養を行う意向を有している。

ヲ  申立人道子が被相続人に雇用中の結料は、被相続人が衣類雑貨小売商を廃業した当時は日給2,500円、その後は月6万円(いずれもボーナスの支給はない)で、同種の職種の勤め人の給料に比べると、低額であった。また、衣類雑貨小売商廃業の際には退職金の支結はなかった(当裁判所調査官○○○○作成の平成3年12月2日付け調査報告書によれば、被相続人が衣類雑貨小売商を廃業した昭和61年当時の兵庫県内の卸し、小売業に勤務する店員の最低賃金は1日3,878円であり、被相続人が死亡した平成2年当時の家政婦の賃金は、昼食付きで1時間平均700円(申立人道子は7時間勤務であるので、月14万7000円)であることが認められる。)。

2  申立人金井正樹について

イ  申立人金井正樹(以下、「正樹」と略称)は、被相続人の妻きよみと従兄妹の関係にあり(きよみの父と申立人の母が兄妹の関係)、きよみが被相続人と大正12年頃結婚したものの、当時きよみがその実家である金井家の戸主であったため、被相続人の戸籍に入籍することが法律上できなかったところから、昭和7年9月17日、申立人正樹がきよみの養子となって、金井家の家督を相続し、これによってきよみと被相続人は同年10月17日漸く婚姻の届出をすることができた。

ロ  きよみとの養子縁組の事情が上記のとおり戸籍上の手続の必要からであったため、申立人正樹は、養子縁組後も実際は実父母と生活し、きよみ及び被相続人とともに同居して暮らしたことはなかったが、週1回日曜日毎に被相続人方に赴き、被相続人に対し帳簿の記帳の仕方を教えたり、税務申告の手伝、年賀状の代筆等をした。

ハ  申立人正樹は、昭和14年8月結婚したが、結婚後は、以前のように被相続人方に出向いて、上記のような手伝をすることはなくなったが、同申立人の結婚、子供の誕生に際しては、きよみから祝を贈られたりして、互いの交流は続いた。

ニ  また、申立人正樹は、戦争中の昭和20年、空襲が激しくなった折には、疎開先に心当たりのない被相続人のために、被相続人方の商品を、姫路市内の自分の実家に疎開させ、次いで神戸市内の被相続人の自宅が空襲により焼失した際には、被相続人夫婦を上記実家に疎開させ、また終戦直後には、空襲を免れた大阪市内の自宅に被相続人夫婦を引き取り、被相続人夫婦の居宅が神戸市内に新築されるまでの1年間、同居して、その生活を助けた。

ホ  その後も、申立人正樹は被相続人の商売の相談に預かり、当時行われていた闇市で商売することを教えて、収益を挙げさせたが、昭和37年頃、同申立人経営の会社の資金繰りが困難になった際には、被相続人の承諾を得て、被相続人所有の株式を担保に、会社の営業資金を銀行より借り受けたこともある。

ヘ  昭和34年頃には、被相続人より、申立人正樹の長女を被相続人夫婦の養子に迎えたいとの申し出があり、長女を暫く被相続人夫婦と同居させたことがあったが、縁組成立には至らなかった。

ト  昭和48年頃、きよみが申立人正樹に無断で、同申立人所有の墓地に、被相続人夫婦の墓を建立したが、その後被相続人から、夫婦死後の祭祀を委託され、申立人正樹はこれを承諾した。

チ  昭和53年被相続人の妻きよみが病気入院した際には、申立人正樹は毎週1回は同人を見舞い、またきよみ死去の折には、通夜にも出席した。しかし、通夜の席上、被相続人と些細なことで意見を異にして気分を害し、そのため葬儀には参列せず、以後は極く時たま被相続人方を訪れる程度であった。平成2年2月被相続人が入院した後は、1度同人を見舞い、葬儀には参列した。

3  申立人山口恵子について

イ  申立人山口恵子(以下、「恵子」と略称)は被相続人の妻きよみの姪(同申立人の父ときよみとが異父兄妹)に当たり、幼い頃から被相続人夫婦を叔父、叔母として親しんできた。

ロ  申立人恵子は、昭和9年頃から昭和14年頃まで、毎年末には20日程度、被相続人経営の前記衣類雑貨小売商の手伝をし、その謝礼として、きよみから売物の下着を貰ったりした。

ハ  昭和15年頃よりは、申立人恵子は他の商店に住込みで働くようになったため、被相続人方の手伝をすることはなくなったが、昭和54年きよみが死亡するまでは、年に数回被相続人方を訪れ、交際を続けた(なお、この間、二人だけで寂しいとの被相続人夫婦の要請で、昭和51年より1年間、長女を被相続人方に預け、商売、家事の手伝をさせたことがあった。)。

ニ  昭和54年1月1日、きよみが死亡した後は、前記申立人道子が申立人恵子及びその妹である後記申立人らの来訪を好まなかったこともあって、次第に被相続人方を訪れることが少なくなり、時折電話で安否を尋ねる程度であった。

ホ  平成2年2月初旬、妹である申立人山口光子からの連絡により、被相続人が道路上で転倒して、怪我をし、入院したことを知り、翌日、妹である申立人村井幸子、上記申立人山口光子らとともに、被相続人を見舞い、その後被相続人死亡まで、5回程度見舞った。

ヘ  被相続人死亡の事実は、上記申立人山口光子より知らされ、葬儀に参列し、その後は、妹の申立人村井幸子、同山口光子とともに、被相続人の墓地に納骨し、現在まで、妹達とともに被相続人の供養をしている。

4  申立人村井幸子について

イ  申立人村井幸子(以下、「幸子」と略称)は、申立人恵子の妹で、被相続人の妻きよみの姪に当たり、姉である申立人恵子と同様、被相続人夫婦を叔父、叔母として、親しんできた。

ロ  申立人幸子は、昭和2年(小学校5年生)頃から昭和12年結婚するまで、毎年盆に1週間程度、年末に1ないし2週間程度、被相続人の店を手伝い、その謝礼として寿司を振る舞われたり、売物の下着を貰った。

ハ  結婚後は、被相続人方の手伝をすることはなかったが、子供を連れて被相続人方を訪問し、交際を続けた。

ニ  昭和54年きよみが死亡した後は、申立人道子が申立人幸子らの訪問を好まなかったこともあって、被相続人方を訪れることは少なくなったが、電話でその安否を尋ねていた。

ホ  被相続人の入院後は、申立人恵子と同様、その死亡までに5回程度見舞った。また、被相続人の死亡後は、葬儀と初七日には所要のため欠席したが、四十九日の前日には妹の申立人山口光子、同西田康子とともに被相続人の仏前に参り、その後は、姉である申立人恵子とともに、被相続人の遺骨を被相続人方の墓地に埋葬し、現在まで、他の姉妹である申立人恵子、幸子、康子とともに被相続人夫婦の供養をしている。

5  申立人山口光子について

イ  申立人山口光子(以下、「光子」と略称)は、申立人恵子、同幸子の妹で、きよみの姪に当たる。

ロ  申立人光子は、3才から5才までの2年間、被相続人夫婦の養子となるため、被相続人方に引き取られたが、同申立人の両親が養子縁組を断ったため、養子縁組成立には至らなかったが、姉達と同様、被相続人夫婦を叔父、叔母として親しんだ。

ハ  昭和8年(小学校6年生)から昭和15年同申立人が大阪に転居するまでの間、毎年盆に1週間程度被相続人の店の手伝をし、その謝礼として売物の下着を貰った。

ニ  大阪に転居後は、自分の生活が忙しく、被相続人方を訪れることもなかったが、昭和26年同申立人が雑貨商を開業して以後は、被相続人と同業種の商売であったため、時折被相続人に仕入先等につき相談するようになった。

ホ  きよみ死亡前には、同人に対する輸血に協力したりしたが、きよみの死亡後は、被相続人方を訪れることは殆どなくなり、昭和62年たまたま被相続人方を訪問した際、被相続人より同居を求められたが、仕事の都合もあって、断った。

ヘ  平成2年2月初旬、被相続人の近所の人から、被相続人の姿を見かけなくなったとの電話があり、申立人光子は、被相続人の安否を気遣って、被相続人の掛かりつけの病院に問い合わせたところ、被相続人入院の事実を知らされ、姉妹に連絡し、同年2月9日被相続人を見舞い、以後被相続人死亡まで8回程度見舞った。葬儀には、病気のため欠席したが、初七日、及び四十九日の法事の前日には被相続人の仏前に参った。その後は、被相続人夫婦の位牌を自宅に持ち帰り、現在まで供養をしている。

6  申立人西田康子について

イ  申立人西田康子(以下、「康子」と略称)は、上記申立人恵子、同幸子、同光子の妹で、きよみの姪に当たる。

ロ  申立人康子は、姉達とは異なり、被相続人の店を手伝ったことはないが、夏休みや正月には被相続人方を訪問し、小遣いや年玉を貰い、幼い頃から被相続人夫婦を叔父、叔母として親しんできた。昭和17年頃大阪に転居後は、たまに被相続人方を訪れる程度で、特に愛知県に転居後は疎遠になった。

ハ  被相続人の入院に際しても、被相続人を見舞った回数は、他の姉達よりも少なく、葬儀にも、遠隔地に居住しているため、参列しなかったが、被相続人の供養は他の姉達と協力して行っている。

以上の認定事実に基づき、各申立人の特別縁故の有無、並びに分与すべき額につき、検討する。

1 申立人道子について、

申立人道子は、被相続人に店員として雇用されたものであるとはいえ、昭和53年被相続人の妻きよみの病気入院後は、店員の仕事のほかに、被相続人より支払われる給料が通常の店員の給料よりも低額であったにもかかわらず、被相続人方の家事、雑用に従事し、特にきよみ死亡後は、独り暮らしとなった被相続人の身辺の世話、並びに病気の看護に当たっなほか、被相続人の死亡後は、葬儀及び法要を執り行ったこと等からすると、同申立人は民法958条の3第1項のいわゆる特別縁故者に該当するというべきである。そして、同申立人に分与すべき金額は、上記特別縁故の程度、低額とはいえ、被相続人から給料の支払をうけていた事実、その他一切の事情を考慮すると、3000万円とするのが相当である。

2 申立人正樹について

申立人正樹は、戦時中、終戦後の最も生活困難な時期に、被相続人夫婦の生活を援助し、貴重な商品を自己の実家に疎開させて、戦後の被相続人の営業再開の基盤作りに貢献したこと、被相続人夫婦の墓建立のために自己の墓地を提供したこと等を考えると、同申立人は、被相続人の特別縁故者ということができる。そして、同申立人に分与すべき金額は、上記の点を除いては、同申立人と被相続人との関係は親族としての通常の関係であって、特別の縁故関係とは認められないこと、最近は、被相続人とは疎遠な関係にあったこと、その他一切の事情を考慮すると、250万円とするのが相当である。

3 申立人恵子、同幸子、同光子、同康子について

申立人恵子、同幸子、同光子、同康子は、いずれも結婚前は被相続人と親密な関係にあったが、それ以後の関係は通常の親族としての交際の域を出るものではなく、したがってその特別縁故性は薄いといわざるを得ないが、現在被相続人の位牌を祀り、協力してその供養を行っていることを考えると、同申立人らを特別縁故者とするのが相当である。そして、分与すべき額は、上記の事実、その他諸般の事情を考慮し、各250万円とするのが相当である。

よって主文のとおり審判する。

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